橿原市議会 2022-09-01 令和4年9月定例会(第2号) 本文
私の父親の世代、祖父の世代でしたら、それこそ、むしろ旗を上げて、そういう忌み嫌う施設は反対やと。60年前、私の祖父は、あそこへその施設ができる計画があって、そして、どの議員にも頼むことができないということで、あるつながりで頼んで、青写真までできているやつをチャラにしたと。
私の父親の世代、祖父の世代でしたら、それこそ、むしろ旗を上げて、そういう忌み嫌う施設は反対やと。60年前、私の祖父は、あそこへその施設ができる計画があって、そして、どの議員にも頼むことができないということで、あるつながりで頼んで、青写真までできているやつをチャラにしたと。
おっしゃる点、非常に私も共感できる部分で、2回ぐらい前の一般質問でヤングケアラーのことを取り上げさせていただいたときに、私の家庭でも祖父の介護の面倒を見ていたという話もさせていただきました。最後の3年ほどは、もう施設に入ってしまっていて、やっぱり家から出るとなかなか関わる機会もなくなってきますし、施設に入ってから、言ったらすごく悪くなるペースも早かったのかなと思っております。
実は、私自身も実家で学生時代に認知症の祖父の面倒を見ておりました。実は、私は母親が介護士をしておりまして、その関係で一通りの介護をするノウハウは母親が持っておりましたし、父親も日中は当然仕事をしておりましたが、夜帰ってきてから祖父の面倒を見ておりましたので、私が多くのいわゆるケアをしなければならないということはありませんでした。私は非常に恵まれていたなと今思えば感じております。
五十数年前にウンカが出まして、うちの祖父が「孝美、えらいものにいかれた」と言って、えも言われぬ顔をしていました。今度はベトナムや中国から飛んできているわけですから、前もって分かるわけですから。それに対して今後どうしていくのか。
これも私ごとでございますけれども、振り返ってみると、父であったり、祖父であったり、おじなんかも全てがんで亡くなっているなと振り返っておりました。
祖父とおじは仲が悪かったため、険悪なムードになれば、物まねをしたり踊ったりして笑わせていました。食事も、特に好物でなくても「やったー、いただき」と言って一番に食べました。そうしてみんなを笑わせ、自分の本当の気持ちはしまい込みました。小学校4年生のとき初潮を迎えました。学校の授業で学んでいたので、これが生理だということは分かりました。でも、母親には言えませんでした。
東日本大震災の津波の折、逃げようとしなかった祖父に対し、学校で「津波が来たら高台へ」と聞いていたお孫さんが避難を促し、難を逃れたという話を聞きました。 以前にも提案させていただきましたセーフティプロモーションスクールなど、子供の目線や視点を盛り込んだ地域防災にも積極に取組を進めていただきたいと思います。
やっぱりゆかりのある地で何か貢献したいなと思っていらっしゃる方もいるということで、あとは、母の実家が三宅町に隣接する広陵町で、また曽祖父は、その町長をしていましたと、何でこういった方に広陵町で働いてもらえなかったのかという悔しい思いをしていたところなんですけれども、やっぱり自分たちが思っている以上に、外の方から見たときに、自分のスキルとか能力を奈良県、あるいは奈良県の中の地方自治体に使いたいと思っていらっしゃる
例えば、私の祖父や祖母からいうたら、当時は田中町までしか奈良交通のバスがなかったわけです。どうしていたかといったら、農業をやっていましたから、毎日スクワットをやっているみたいなものですから、三輪山に参るのに香久山駅まで歩く、近鉄を利用するときは大福駅もしくは耳成駅まで歩くと。「何で田中町までしかバスがないのやろう」と、こういうことをずっと言っていました。今はコミュニティバスが走っていますけどね。
そのときは、私の家から畠田駅まで田んぼばかりでありまして、夜トイレに行くときに祖父と外へ出ると、駅の明かりだけが1つぽつんとできたと、これが3歳のときの、まず原体験というか、実は記憶として残っているわけでありますけれども、その後、60年余り、私自身も利用をさせていただきました。
そのときに森トラストの社長さんの森章さんがインタビューを受けた中で、私は、奈良県桜井市、祖父が出身であると、だから、桜井市に、そして、ひいては奈良県に大きな関心を持っている、だから、これを頑張っているんだというようなことをおっしゃっていただいて、非常にうれしく思っております。
それから、子育て支援ですけれども、基本的に今までのように親やあるいは祖父・祖母の子育ての知恵や情報が全く伝わらなくなってしまったということも背景にあるかというふうに思うんですけれども、一方でしっかりと支援するために、これまできんとっと広場であるとか、わくわくキッズランド、あるいは親子たんとん広場、子供サポートセンターの形で行政として取り組んできたわけです。
私も昭和53年生まれで、もちろん戦争は知りませんが、祖父から戦争の話を聞き、ミンダナオ島で戦死した大おじのお墓に連れられて育ちました。白く背の高いお墓が並ぶ戦没者墓地、それが私が戦争を知った原点です。しかし、これからの世代は、戦争体験者から見れば、孫どころか、ひ孫、やしゃごの世代に入っています。
それで近所に祖父、祖母がおりまして、朝の送りと帰りはもう若夫婦の身がわりにしているものですから、そこのところに最近、全くの赤の他人ですけれども、うちのところの子も頼めないかというので話があったわけです。預かるのは責任問題があるから難しいと言って断られたようですけれども、そういうふうに個人的な努力だけではもういかない状態になっているんだということをぜひ理解をして進めていただけたらと思います。
2番目が祖父69歳、祖母68歳と、こういうふうに例がわかりやすく書いています。 それで、町田市の例も所得基準目安、世帯構成例、持ち家と借家と分けて書いてますね。これも持ち家でしたら、お二人で父または母、子ということで持ち家170万円で、借家だったら254万円と、大変わかりやすく書いているんです。
対象は、配偶者のいない父または母に扶養されている児童、2番目、上記1の児童を扶養している配偶者のいない父または母、3番目、父母のいない児童、4番目、上記3の児童を扶養している配偶者のいない祖父、祖母、兄または姉等でございます。助成内容は、同じでございます。所得制限に関しましても、なしでございます。 そして、心身障害者医療費助成でございます。
そこの親子、祖父と祖母とです。だけど、そういうことが起こるから、桜井市、行政のほうでこのことをせいと言われたですやろう。できひんなら、断るべきですよ。できもしないのにするから、こうなるんです。だから、このことを、推進課から出たデータを一切に書き上げもしないで、当然訪問しないと書けませんわね。そんなことをやって、これできますかというんです。
私の親も、祖父が戦死をして義務教育しか出ていないわけですけれども、主な原因というのは、それは、生活の困窮によってそれは進めなかったというようなことでありますわ。当然、私なんかの世代ですと、そんな経験というのは実感的にありませんけれども、おそらく今起こっている経済状況というのは、そのときに次ぐようなひどい状況が起こりつつあるんちゃうかというような実態があると思うんです。
そして、十一月十四日には母親とその親、いわゆる祖父に当たる人ですけども、話し合いをしたわけですけども、最初から何回となく申してますように、担任と母の意見はなかなかかみ合わず、このときも実は不調に終わったわけですけども、本当に感情の対立というのは、いかんともしがたいもんがあって悩んだところでございます。これは校長先生も悩まれたし、私自身も悩んだところでございます。
でもある日、祖父から、君が代なんて歌は歌っちゃだめだと言われ、子供ながら困惑したことを覚えています。日本が韓国・朝鮮人をひどく差別したころのことが祖父の脳裏から離れないのです。私は日本が好きです。でも、日本と韓国の歴史的背景や現在も残る差別のことを考えると、君が代を日本の国歌として受け入れにくいのです。私は、日本に住んでいる人々全員が気持ちよく歌える国歌ができることを望んでいます。